大江健三郎『セブンティーン』・『政治少年死す』を読んで

 去る29日に1月度の 読書会を開催しました。読むのにやや体力にいる作品2作でしたが、「今の自分」と照らし合わせて読む人もいて興味深い感想が聞かれもしました。今回は前半にドキュメンタリーを見、後半に感想会をやる形式でしたが時間の長さもいい塩梅に収まった会だったと思います。以下、参加者の感想です。↓ 

「おれ」はたまたま出会ってしまったがために天皇という名の下の右に傾倒していったのだろうか。

右翼少年でない者が読んでも、この『セブンティーン』と『政治少年死す』は彼を怒らせるに十分すぎる内容であるということは一目瞭然である。彼らの活動は自慰行為だと言っているのだから。家庭では冷遇され、学校では情けない立ち回り(長距離走中での失禁30頁)を強いられる「おれ」は、エログロナンセンス映画を観に通うことから付けられた「新東宝」によって右翼街頭演説の「さくら」をやらないかと誘われ赴く。そこで彼は「右の鎧」を手に入れることとなる。(36頁)

彼が天皇と自己を同一化していく、つまり「右」へと傾いていく決定的なモメントはやはりその街頭演説でのシーン以前の校庭での失禁にあるのではないだろうか。そこで彼は完全に男らしさを見せる機会、あるいは男として見られる機会を失うのである。(さらに彼は容貌にもコンプレックスがあり、それに加え自慰常習者である。そして彼はそのことを意識する度に赤面する自意識をコントロールできていない初心なセブンティーンなのだ。)「右の鎧」とは天皇を信じることで、天皇を自己の中に深く取り入れることで自分に自信を感じるということである。これは「忠とは私心があってはならない」の世界に入り込むということで、彼はここで不安定な自我の葛藤を放棄するのである。(43頁)

『政治少年死す』において「おれ」は過激で暴力的な党員として一目置かれる存在となっている。しかし彼は恩師逆木原や「左翼がつくった『わだつみのこえ』」(本文)の愛読者である安西といった一時尊敬の念を抱く対象であった人々をも見限り、ついに自らでの行動を決心する。彼は(「きみ」と7では呼ばれる)「バナール」な演説をする(社会党)の委員長を暗殺するのだ。

もはや彼の頭の中には「私心なき忠」という言葉しかよぎらない。彼は「おれ個人の恐怖にみちた魂を棄てて純粋天皇の偉大な溶鉱炉になかにとびこむ」ことを決心する。彼は小児性愛者の隣の独房で一人死と自慰の「甘さ」をいっぺんに味わいながらこの世を去っていく。

「おれ」が現代に生まれていたら、彼はもしかしてネトウヨになっていたのかもしれない。しかし、そうなればこのように人を殺め、自死することはなかったのではないだろうか。自分を傷つけるよりも相手を傷つけることで快楽を覚えるのが現代のネット世界である。1960年代の血生臭さと現代の陰湿さを思う筆者であった。右に傾いたのはたまたまだったのか、必然的だったのかという問題は別にしてもこの2作品は17歳という自我との葛藤を強いられる時期にその自我を別のものに仮託してしまった少年の顛末を描く実は身近な悲劇ではないだろうか。(ページ番号は講談社刊『大江健三郎全集』による)

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