読書会『ハムレット』を読む

本日12月18日今年最後の読書会を開催しました。作品は古典中の古典、シェイクスピアの『ハムレット』。
以下発表者の原稿をコピペします。

「われわれが『ハムレット』を傑作と考えるのにはひとつの理由がある。それは、シェイクスピアが真実を語っているということだ。そしてここに書いた図はどれもほとんど真実など語っていない。真実というのは、われわれは人生についてはほとんど何も知らないということであり、何がいい知らせで何が悪い知らせなのかもまったくわかっていないということなのだ。

わたしは死んだら――死にたくはないが――天国に行ってそこの責任者にこう尋ねてみたい。〈何がいい知らせで、何が悪い知らせでしたか?〉」カート・ヴォネガット『国のない男』(金原瑞人訳NHK出版)より

「何がいい知らせで何が悪い知らせなのかもまったくわかっていない」、この言葉は『ハムレット』どいうドラマを言い当てるのにぴったりのものだと思います。最後ハムレットによって宣言されるフォーティンブラス・ジュニアの戴冠は一見このドラマにおける唯一の「いい知らせ」のようにも見えますが、しかしよく考えれば敵国ノルウェーのプリンスを迎え入れるということは必然的に波乱を迎えることではないでしょうか。

そして我々はハムレットという青年が何故これほど行動を先延ばしにするのか、明確には説明出来ない。To be or not to beという台詞がこのドラマの代名詞となった所以でもあります。→実際にこの台詞を聞いてシェイクスピア演劇の雰囲気を感じてみましょう。

さて、ハムレットは何故早くクローディアスを殺さないのか。フロイトによればそれはハムレットの叔父は母と性的に結合する願望を叶えている存在であり、それはつまり自分の願望を叶えている存在でもからです。フロイトにかかればいわゆるエディプス・コンプレックスの典型的な例としてハムレットは見られるわけです。(『夢解釈』上454頁)
なにかにつけて性的な関連において物事が語られる故に、フロイトは学生の間で小馬鹿にされることも多々ありますが彼の発想力・構想力というのは実に魅力的でありインスピレーションに満ちたものです。

『ハムレット』をきちんと読むのは3回目ですが、今回の僕の読みにおいてはフロイト的解釈がヒントになっています。ハムレットは偉大な二人の父に去勢されてしまっている。僕そう思います。あれだけ憎んでいるクローディアスさえ母を手にしているということでハムレットにとっては大きすぎる存在になる。ハムレットは一幕五場において「関節joint」という言葉を使っていますが、この言葉は一幕一場において叔父ポローニアスも使っていいます。これは無意識のうちの「父」としてのクローディアスの存在を意識してしまっているからでしょう。ケネス・ブラナーは映画でハムレットをマザコンのように描きましたがこれはこれで非常に説得力のあるものです。でも僕は、これは父親譲りの説ですが、ハムレットはホモセクシャル、あるいは少なくともバイセクシュアルなのではないかとも思うのです。『おっさんずラブ』の見過ぎかもしれませんが三幕二場(133頁)におけるホレイショーとのやりとりにはそのことを匂わす雰囲気が感じられないこともありません。
父は何故亡霊となってハムレットに復讐を誓わせるのか。考えてみれば息子に自分を殺した相手を復讐せよというのは中々酷い話です。しかもその相手は叔父であり母の夫でもある。ハムレットの饒舌、彼は本質的に詩人なのではないか。実際マラルメはハムレットを理想の詩人として仰いでいますがハムレットという人物は芸術家肌の、極めて手弱女平な男です。父の亡霊はハムレットに「男らしさ」を教えようとしているのではないか。第三幕第四場の亡霊の台詞「かよわい者ほど思い惑う」のだはレアティーズに向けて放たれたものですが、これは同時にハムレットにも向けられてはいないかと思うのです。

ハムレットはいつクローディアスを殺す決意をしたか。それは三幕三場においてはまだ固まっていないことは確かですが、四幕四場をそのモメントとするのは明らかかもしれません。「真に偉大なのは大義がなければ動かない者ではなく、名誉がかかっているとなれば藁しべ一本にも闘う理由を見出す人間だ」(192頁)。フォーティンブラス・ジュニアを見て彼はこう思うわけです。五幕一場の墓でのシーンがなければ話は早かった。ここにおいてハムレットはあぁ、まだ悩んでいたのだなとわかってしまうのです。 「いや、そんなことはない。ごく控え目にたどってひとりでにそこに行き着く。アレキサンダーが死ぬ、アレキサンダーが埋葬される、アレキサンダーが塵に還る、塵とは土だ。土から粘土ができる、ほら、アレキサンダーのなれの果ての粘土でビール樽の栓を作ってもおかしくないじゃないか?」(236~237頁)

シェイクスピア研究家の河合祥一郎氏の言葉借りて、この場面においてハムレットは「to be」から「let be」へと変容する。より砕けた表現を使えば「ええい、ままよ」といったところでしょうか。また仏教用語を使えば「悟りの境地」、となる。この場面以降のハムレットはそれ以前に比べると実にすっきりとしています。もうあとは、運命の従うのみ。(それにしてもここから最後の叔父に対する復讐に至るまで、その復讐はレアティーズ、そしてクローディアス自らによってお膳立てされているのはなんとも皮肉です。母ガートルードが、ハムレットが飲むはずの毒を飲んでいなかったら、レアティーズの剣の刃先に毒が塗られていなかったら、果たしてハムレットはクローディアスを殺せたでしょうか? あるいは悩めるハムレットは敵がこうして仕掛けてくるのを待っていたのか?)
さてデンマークは「関節の外れた」、腐った国になってしまいました。フォーティンブラスという敵国ノルウェーの王子に王位を譲ることは異例なことに違いありませんがデンマークを浄化するのはそうするしかなかったのでしょうか。

スーザン・ソンタグは『ハムレット』を悲劇ではなく、劇作家、そして登場人物の自意識のドラマすなわち「メタシアター」であるライオネル・エイベルの説を支持しています。エイベルにいわせれば悲劇とはどこまでも運命に翻弄される「自意識を欠いた」登場人物がいなくては成立しない。知らぬ間に近親相姦をおかしてしまう『オイディプス王』がまさにその悲劇の典型となります。『ハムレット』が最初から最後まで自問自答の劇であるのと対象的です。

我々はオイディプスの途方もない運命のいたずらに打ちのめされるわけですが、『ハムレット』において我々は彼とともに悩む。だからこそこのドラマは「文学のスフィンクス」あるいは「文学のモナリザ」と呼ばれる。僕自身3度読んで、毎回違うハムレットが浮かび上がってきます。だから皆さんがどう読まれたのかをうかがうのが非常に楽しみです。

翻訳は松岡和子さんのものを使いました(ちくま文庫)

参加者感想
「亡霊は最後のあたり出てこない」→たかし。だからハムレットの「内なる声」だったとも考えられる。

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