報告:4月27日にオンライン上(zoom)で読書会を開催しました。作品は鴨長明の『方丈記』、コロナ禍の中ふと思いつき選びました。原文を(つまずきながら…)朗読し、和漢混淆文で書かれた長明の文章に耳を傾ける会になりました。(形式:原文・翻訳朗読、西郷信綱氏による解説、感想会)。
以下、この読書会を振り返って参加者が書いた文章の抜粋も掲載します。『方丈記』は「無常」なだけではないのです。
4月にオンライン読書会で鴨長明の『方丈記』を扱った。ここではその時を振り返って思うことを書いてみたい。新型コロナの「第1波」が広がる中で『方丈記』が読みたくなった。その時の私の感想はこのようなものであった。「戦乱に辻風、大火に飢饉。立て続けに降りかかる災厄を経験し無常をとく隠者になっても尚、庵に咲く藤を静かに愛でる姿に私は感動をおぼえました」。そしてその後河出文庫から出ているアンソロジー(今村純子訳)所収のシモーヌ・ヴェイユが17歳の時に書いた小論『美と善』を読むことがあって、その時このような一文に出会った。「何かが美しく見えるとは、そこに存在しているつねに移ろい流れてゆくものを見ているのではなく、不変で永遠なるものを見ていることだからである」(67~68頁。ちなみにこの考え方はプラトンの『ティマイオス』から引っぱってきているようだ)。そしてこのイメージと、長明が藤を愛でる姿が私の中でピタリと重なったのだった。
そして先日、「危機の神学」と題された『文學界』8月号掲載の若松英輔、山本芳久の対談を読んでいたら『方丈記』について言及されていて、しかも私が感じたのと同じようなこと(恐らく読めば多くの人が抱く共通見解かもしれないが)が書かれてあって驚いた。驚いたと同時に、同じようにこの時期に『方丈記』を読もうと思い立ったという人がいて「間違ってなかった」と感じ、正直なところ嬉しくもあった。
「今回のコロナ禍中であらためて読み、今、翻訳しているのが『方丈記』なのです。(略)学校などでは〈無常の文学〉と習うわけですが、改めて読むと、鴨長明が力点を置いているのは無常よりも、それをあらしめている永遠です。後半のほうに行くと、いかに朽ちないものを発見していくかという物語に変わっていく」(若松)。