11月読書会 スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』

サバルタンは語ることができるか

11月29日に読書会を開催しました。

題材はスピヴァク『サバルタンは語ることができるか』。参加者は4名でした。

今回はその簡単な報告をしていこうと思います。


『サバルタンは語ることができるか』とは

ガヤトリ・スピヴァクはインドのベンガル地方、カルカッタ出身の思想家で、現職はコロンビア大学の教授をしています。

ところで彼女の代表作である『サバルタンは語ることができるか』は、ポストモダニズムの新地平を切り開いたということで有名ですが、結局その内容はどのようなものなのでしょうか?

かなり大雑把に言いますと、スピヴァクはデリダとマルクスを援用してフーコーとドゥルーズを批判します。彼女に言わせると、フーコーとドゥルーズは「サバルタンは語ることが出来るし、それを(私たち西洋の)知識人は聞き遂げることができる」と言っているが、そんなことは出来ないというのです。

本書は論点が多く、どれが一番重要かなどと一概には言うことが出来ないのですが、その意図を読み解くとフーコーとドゥルーズの言う「サバルタン」は本当の意味でのサバルタンではなく、あくまでも第三世界における特権階級を指しているにすぎないとことのようです。

実際インドのような国では、女性の地位が低くされているがために自らの政治的主張をすることができないとスピヴァクは考えています。

…というのが大雑把に読解した要約です。フランス現代思想に疎いため、本文中で引用されるデリダやマルクスの思想についてはよくわからなかった…というのが正直な感想です。

デリダについては今後も課題になると思います。

以下は、参加者のEによる感想です。

ガヤトリ・スピヴァク『サバルタンは語ることができるか』を読んで

 抑圧され、声を上げる力を奪われたものたちであるサバルタン。インド生まれのガヤトリ・スピヴァクは『サバルタンは語ることができるか』において、ドゥルーズやフーコーといった当時の西洋を代表する知識人たちの第三世界への眼差しさえも「自民族中心主義的衝動」に基づくもの、「自民族中心主義」の域を出ないものであると批判し、「サバルタンは語ることができるのか」という問いに対しては、「語ることが出来ない」とスピヴァクは終結部で答える。

 しかしそれは方法論的可能・不可能の話であるというよりもむしろ倫理的可能・不可能の問題ではないだろうか。「被抑圧者たちに自分で語らせようと」するのではなく、デリダが言うように「わたしたちのなかの他者の声である内なる声にうわ言をいわせること」が知識人に要求される態度である(「サバルタンは語ることができるのか。サバルタンの連続的な構築がおこなわれることにたいして警戒を怠らないためにエリートはなにをしなければならないのか」72頁)。

 さらにスピヴァクがデリダの「うわ言」という言葉を引用する時、この言葉はフーコーやドゥルーズといった知識人たちの(あるいは被抑圧者たちに自分で語らせようとしてしまうような知識人たちの)「あまりにも大きな透明性要求」へのアンチテーゼとして機能する。

 スピヴァクが考えているサバルタンとは具体的にどのような存在なのか。それはドゥルーズが想定しているような「理念的にはサバルタンである現地の古い地方的エリート」などではない。インドのカースト社会内において抑圧される対象である女性である。スピヴァクは彼女たちの「声―認識」(voice-consciousness)を組み立てるということを説く。しかしそれは当然アポリアとして立ちはだかることである。「認識の暴力」という言葉を使っているが、他者(ここではサバルタン)を誤って定義すればそれは無理解・誤解という、彼らにとってのさらなる暴力へと繋がる。

「抑圧は、なるほど、〈消滅すべしと〉いう宣告としても機能するが、しかしまた、〈沈黙すべし〉という命令、非―現存(non-existence)の主張としても機能するのである」(110頁)。このように沈黙という抑圧を受けたサバルタンが、1926年に首を吊って自死したブヴァシュワリ・バドゥリである。彼女は死後10年ほどたち当時武装闘争を行っていたグループである要人の暗殺を任されていたのだがそれに向き合えず結果自殺をしたということがわかったのだが、彼女は「自分の死が(すぐに)違法な恋愛の結果だと診断されるだろうとわかっていた」。彼女は「サティー(寡婦殉死)という自殺行為についての社会的テクストをあるひとつの介入主義的なやりかたでもって書き直したのだった」(114頁)。生理中の女性は殉死の権利が認められていなかったが、彼女はわざわざ生理がくるのを待って自殺したのだった。それはスピヴァクに言わせれば「サバルタンは、その声を聞いてもらうことも読んでもらうこともできないでいるのである」ということになる(115頁)。

 「サバルタンの連続的な構築」ではなくその都度出会い、そしてその都度考えあぐねることのみが我々に許される倫理なのであろう。

次回の読書会について

次回の読書会は、マクタガートの『時間の非実在性』を読もうと思います。

初めての時間論なので心して読みたいと思います。

それでは次回もよろしくお願いいたします。(ZOE編集部員S)

前回の読書会はこちら

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